
Instagramでフォローする Facebookでフォローする Twitterでフォローする
世界⼀背の高いダンサー、ファブリース カルメルにとって身長はただの数字である
By Stephanie Wolf of Dance Informa
もし、小さい頃のファブリース カルメルに大きくなったら何になりたいかと尋ねたなら、意外な答えが返ってくるだろう。
“本当になりたかったのは、空軍のパイロットだったんだ。 ” カルメルは言う。
ジェット機に乗るのを夢見ながら、彼は放課後バレエのレッスンを受けていた。
彼は、その課外のレッスンが後に人生の情熱となり天職になるとは、そのとき全く想像すらしていなかった。
現在、彼は35才。シカゴにある The Joffrey Ballet (ジョフリーバレエ団 )のプリンシパル ダンサーを務め、その約2 mという身長から、ギネスワールドレコードで世界一背の高いバレエダンサーとしての記録を持っている。
ダンスを⾝につける – そして、また習得し直した
フランスの街コロンブに生まれたカルメルは、両親が仕事で忙しかったこともあり、4才の頃から姉のバレエレッスンに付いていくようになる。
初めは、両親が仕事にいる間、レッスンを見ている予定だったが、当時の先生には違う考えがあった。
“先生(ムリエール マウリン氏)のクラスには男の子がいなかったんだ。 ”カルメルは言う。
“そして先生がこう言った、
「あなたは何度もここに来てレッスンを見ているんだから、レッスンを受けたほうがいいって。」 ”
モウリン氏は、カルメルが通ったフランスのマニャンビルという街にあるダンススクールのオーナーで、彼の才能を見いだし、のちに The Ballet School of the Paris Opera(パリオペラ座バレエスクール)のオーディションを受けるよう、彼に勧める。彼は、9才にして名門ダンスアカデミーに入学した。
それは彼が通っていたような小さなダンススクール出身者にとって、狭き門だった。
15才で、彼はバレエの芸術に夢中になり、カンパニーへの入団を目標に掲げるようになる。
“それを切望するようになっていた。 ”カルメルは言う。
“そして、そう願えば願うほど、競争心が⽣まれるし、ストレスを感じるようになっていた。だって、上⼿く踊ることが出来なければ、それでおしまいだって分かっていたから。 ”
成功へのプレッシャーは、大きな挑戦のたった一部分でしかなかった。カルメルは、スクールでも優秀だった。しかし、17才になったころ予想外の身体的な成長の加速に悩まされるようになる。
“1ヶ⽉に約2.5 cmずつも背が伸びていたんだ。 ”と彼は言う。
“驚きだったし、⾝体的にも苦痛だった。⾻が急速に成長して、僕の筋肉を圧迫していたからね。 ”
ダンサーにとって、背丈が伸びることは様々な問題をもたらすことになる。
“身体の重⼼が変わるからね。 ”カルメルが付け加える。
“僕は、それが原因で技術と体力を失い始めていたんだ。とっても精神的に苦しかった、学校(パリオペラ座バレエスクール)での最後の年だったしね。”
彼は、ダンスの仕⽅を⼀から習得し直さなければならなかった、と言う。
背の高さ:“バレエの世界では問題になる”
カルメルの Paris Opera Ballet(パリ オペラ バレエ団)で役を獲得するという野望は、叶わなかった。
“⼊団出来なかった時は、精神的に辛かった。 ”と彼は語る。
“夢が砕かれたみたいだった。まだ挑戦し続けるかを、自分に問わなければならなかったし。 ”
当時、学校の校長だったクロード ベッシー氏は、カルメルに海外へ留学するよう奨める。
それがきっかけで、彼はフィラデルフィアにある The Rock School (ロック スクール) へ行き、その後 Boston Ballet II(ボストン バレエ団 II)へ進むことになる。
“自分の身体をエンジンのように思うようにしたんだ。 ”カルメルは、彼のその⾧身のことを言う。
“うまく動くように調節しなければならなかった。そして全ての弱点を見つけて、改善する努⼒を⼀生懸命したよ。だって、自分の半分ほどの背丈のダンサーと競わなければならなかった
からね。 ”
彼はまた、アメリカにも興味を持つようになる。
“色々な所にオーディションに行ったよ。 ”カルメルは言う。
The Joffrey Ballet (ジョフリーバレエ団 )も含めて。バレエ団の共同設立者の ジェラルド アルピーノ氏(2008年に他界)は、カル
メルに仕事をオファーする上で、彼の⾝長については何の躊躇もしなかったという。
入団前、カルメルはフランスへ戻り、ヨーローッパ中のオーディションを受けていた。
そして、2001年9⽉11日に起こったワールドトレードセンターツインタワーの襲撃の後、カルメルはビザを習得することが出来ずにいた。
渡米の可能性が不透明なまま、彼は、フランスの有名なキャバレー、 LIDO de Parisに参加する。それは、彼のパートナリングの技術を強化する、⼤変素晴らしい経験になったと、彼は言う。
渡米とバレエの夢はまだ諦めていなかった。
カルメルは、1年後の2002年に The JoffreyBallet (ジョフリーバレエ団 )にメールを送り、シカゴでレッスンを受けてもいいかと申し出る。
そのとき、すぐに壁に打ち当たる、バレエ団の責任者から、カンパニーを拡小する予定だと伝えられたのだ。それでも、彼は渡米することを決める。
“レッスンの最後で、彼らが言ったんだ。皆さんに出会えて良かった、でもここにはあなた達のポジションはないですよって。 ”
カルメルが回想する。
“まるで、すべてが崩れ落ちるみたいだった。そこに、アルピーノ⽒がオフィスから出てきて、僕とすれ違ったんだ。それでこう言った、ああ君来られたのかいって。 ”
アルピーノ⽒には、バレエ団のポジションを減らすっていう気持ちは毛頭なかった。
そして、その場でカルメルは契約をした。まるで、⾃分のバレエにとっての “ホーム ”を⾒つけられたような気持ちだった、とカルメルは語る。
彼を際⽴たせるのは、彼の⾝長だけではない
ジェフリーバレエ団での、最初の印象的な瞬間と⾔えば、ジョージ バランシン氏振付けによるアポロで主役を務めたことだ、とカルメルは⾔う。
さらに、彼のバレエ⼈生の中でも極めて重要な出来事として、ラール ルボービッチ氏振り付けによるオセロ(シェークスピアの作品をもとに脚色された A Dance In Three Acts)で主役を演じたこと、を挙げた。
“演技⼒が本当に問われる作品なんだ。まるで、物語を自分が背負っているかのようにね。 ”
カルメルは言う。
“厳しいけど、舞台に立っていて、その本当の楽しさを感じたよ。 ”
ルボービッチ氏も、当初はカルメルの⾝長、外⾒、そして技術⼒に惹かれていた。
しかし最終的に彼が主役の座を射止めたのは、彼のダンサーとしての芸術⼒にある、と言う。
“台詞なしで演じるということは、迫力、タイミング、音楽、情緒、そして何よりも想像力を通して表現するということだ。 ”とルボービッチ氏は語る。
“ファブリースはその全てを、オセロで豊かに表現する。彼は、⾝体を使って詩を朗読することが出来るような、そんなダンサーだ。 ”
カルメルは、彼のパートナリングの技術についても定評がある。
それは、 Pacific Northwest Ballet(パシフィック ノースウエスト バレエ団)の元プリンシパル ダンサーのカーラ コーブス⽒も証言する。コーブス氏は、彼らの最初の出会いは4年前で、彼女の故郷であるブラジルの街で開かれたフェスティバルに、彼を招待し⼀緒に踊ったことだった、と話してくれた。当時、彼⼥はシアトルに住んでいて、カルメルはシカゴで生活していた。
“ブラジルに行く少し前に、出会ったのよ。 ”コーブス氏は説明する。
“彼と仕事をするのは、とっても⾃然でやり易かったし、1⽇で2つも pas de deuxs(2⼈人のステップ)を完成させたの
よ。”
それが、最⾼のパートナーシップの始まりで、彼の⾝長は長所で、障害だなんて思わなかった、と彼⼥は話す。
“でも、彼の素晴らしさはそれだけじゃないわ。 ”コーブス氏は続ける。
“彼は、パートナーとして、とても注意深くて、丁寧なの。いい関係で仕事が出来たし、舞台では、いつも⼀緒に楽しむ
ことが出来たわ。 ”
“変わりつつあるバレエの世界”
カルメルは、尊敬することができ、導いてくれるような⾼身長の他のダンサーが居なかったことに、最初は落胆していた、と語った。
“他のダンサーに、あなたが⽬標としているとか尊敬しているダンサーは誰か、と問うと、必ず自分自身に似ているような誰かを挙げるんだ。あとを追っていけるような存在をね。 ”
彼は、次の世代の人たちにインスピレーションを与えられるような存在になりたいと願っている。
それは、182 cm以上のダンサーにとってだけではなく、ダンスの世界で限界に直面し、苦悩している若いダンサーにとっても。
“⾃分自⾝を信じること。 ”
カルメルは激励する。
“僕は、自分を信じて、そして宿題(さらなる努力)までしなければならなかった。 ”
近年、理想のダンサーの基準が変化しつつある、と彼は言う。
“全てのものは、いつかは変わっていく、人々がその変化を受け入れるのに時間がかかるかも知れないけどね。 ”
カルメルは続ける。
“バレエをするのに、どんな体型を持っていると優れている、とかそういう事はないんだ。⾝長が高くても、成功出来る。⼈々は、様々なタイプのダンサーに寛容になってきているから。 ”